About ”Kochi ware”

交趾焼について

南蛮貿易とも朱印状(一度限りの貿易許可書)貿易とも呼ばれて盛んに交易がなされていた時代、16世紀中頃から17世紀前半(安土桃山時代~江戸時代初期)、この間の80年~90年間の朱印状発行は、540通ほどを数えた事がわかっています。その内の270通ほどが南ベトナムの、今では世界遺産に指定されている会安(ホイアン)の港を目指しました。その頃安南国(現在のベトナム)は南北朝に分かれており、日本独自の呼び名として北を東京(トンキン)、中部より南を交趾(コーチ)と呼んでいました。

ちなみに北ベトナムを指す東京(トンキン)行きは、14通の発行となっています。他にはジャガタラ(インドネシア)、ルソン(フィリピン)、シャム(タイ)等行きの朱印状が発行されています。その点から見ても、交趾行きの船が多いのがよくわかります。

朱印状による交易は「南蛮船」とも「交趾船」とも呼ばれ、会安では世界各地の珍しい物品との交易がなされ、出合い貿易と呼ばれる交易が盛んに行われていました。その交趾通いの貿易船が持ち帰る物品を「交趾物」、これは「珍しい物」と同義語となっていました。南方から世界の様々な珍しい物を日本に運びました。その後、朱印状貿易は1639年「鎖国」という形で途絶えます。その後は長崎の出島を通じ、オランダの東インド貿易会社と中国(清朝)とは交易が続いておりました。その出島を通じてもたらされた、色鮮やかな線模様の小容器が「珍しい物」との意味合いで「交趾型物香合」と呼ばれた事が交趾焼の由来です。

1997年の発掘調査によると、中国南部、「福建省」平和県田坑の窯跡から発掘され、日本渡来の64種類内28種類が発掘され、作られたのは交趾(ベトナム)ではないとの事が証明されたのです。結果、交趾物は「珍しい物」と同義語であり、ベトナムとは何ら関係がなく、名称として独り歩きをした事がわかりました。

この珍しい色彩の香合が日本で初めて文献資料に出てくるのは1683年の茶会記の「交趾形物香合」で、お茶人の間で珍重されました。以降64種類の交趾型物香合が登場し、このような日本になかった色鮮やかな焼物を「交趾」と呼ぶようになり、江戸末期には日本でも香合のみに留まらず様々なお茶道具が作られるようになりました。

翠嵐工房では伝統的技法をベースに、絵具の改良や技術の革新、新原料の開発を続けることで「現代に於ける交趾焼」をつくり、その取り組みは止まる事なく続いています。そこにあるのは「常に新しい事に挑戦し続ける」という一貫した姿勢です。

works

作品

茶陶の世界で永きにわたり重用されてきた「交趾」。翠嵐工房が積み重ねてきた交趾の技術と経験。これは言い換えれば交趾の良さを誰よりも知り尽くしている事に他ありません。
私達はこの素晴らしい交趾の伝統を守りつつ、時に新しい形で皆様にご提案し続けたいと考えています。
失敗を恐れずチャレンジをし続ける事でのみ得られる経験と、そこから生み出される作品がここにはあります。

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翠嵐工房について

わたしたち翠嵐工房は、京都・山科の清水焼団地内にあります。その名前の通り、窯元や陶器関係の会社が集まったエリアですが、平時は非常に静かな場所です。ですが年に一度開催される「清水焼の郷まつり」の際には、国内外問わず多くのお客様で賑わいます。2023年には作品をゆっくりご覧頂け、翠嵐工房の世界観をお楽しみ頂けるギャラリーを新設させて頂きました。皆様のお越しを心よりお待ち申し上げます。

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